日本が江戸時代である1853年6月、神奈川県の浦賀沖にアメリカ海軍提督ペリーの率いる黒船があらわれました。
ペリーは日本の開国と、アメリカとの通商を求める大統領の国書を持ってきていました。
江戸幕府は、ペリーの強固な態度におされ、国書を受け取らざるを得ない状況でした。そして、その国書の返答を聞きに、翌年来航することを告げて行きました。
翌1854年、ペリーは再び来航し、日本と「日米和親条約」を結びました。
日本は、下田(静岡県)と函館(北海道)を開港し、アメリカ船に食料や燃料を提供することにも同意することとなりました。
また、下田にはアメリカの総領事館が置かれることになりました。
その後、イギリス、オランダ、ロシアとも同様の条約を結ぶこととなり、日本の鎖国は崩れました。
1856年には、アメリカ総領事ハリスが、幕府の役人に海外との通商条約の必要性を伝えてきました。
幕府は、この内容を朝廷に伝え、朝廷の同意のもと条約を結ぼうとしました。
しかし、朝廷は条約締結に反対意見が強く、同意は得られませんでした。
しかし、幕府の臨時最高職である大老、井伊直弼は1858年にアメリカと「日米修好通商条約」を結びました。
この条約の内容は、日本には関税自主権がなく、アメリカ人が日本で罪を犯したときに日本の法律ではなくアメリカの法律によって処罰されることとなる領事裁判権を認めるというものも含まれていました。
日本にとって非常に不利な条約のため、不平等条約と言われるものです。
この不平等条約は、1894年陸奥宗光による交渉で、領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復がされました。
その後、1911年に小村寿太郎がアメリカと交渉し、関税自主権を完全に回復することに成功しました。
これまでの間、日本は不平等条約に苦しんだ歴史があります。