18世紀末になると、日本の周辺に外国船がやって来るようになりました。
ロシアはシベリアを征服し、さらに南に勢力をのばそうとしていました。
1792年、ロシア使節のラスクマンが根室に来航しました。
その際に、日本人の大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)という漂流し、ロシア人に助けられた漂流民を届けてくれました。
そして、幕府に今後の通商を求めました。
1804年にはロシア使節のレザノフが長崎に来航し、再び通商を求めましたが、幕府はこれに応じませんでした。
そのため、ロシア船が樺太や択捉島に攻撃をしてきました。そのため、江戸幕府は防衛に力を入れました。
また、18世紀末にはヨーロッパでフランスが勢力を強めオランダを征服しました。
その機会にイギリスはオランダの海外拠点を奪おうとアジアへの進出を進めました。
1808年にイギリスのフェートン号が長崎港に来て、オランダ商館員を捕え薪や水を強要する事件が起こりました。
この頃にはアメリカも、水や燃料の補給を求めて日本に近づくようになりました。
幕府は海岸の防衛を固めるとともに、1825年に異国船打払令を出しました。鎖国中の日本は鎖国の方針を変えず、守ろうとしました。
そのため、1837年、日本の漂流民を救助し、日本に送り届けようとしたアメリカ船モリソン号に対しても砲撃が行われ(モリソン号事件)、それに対して高野長英や渡辺崋山といった蘭学者が本で批判する事態が起きました。これに対して幕府は厳しい処罰を与えました(蛮社の獄)。
その後も外国船は日本周辺に接近し、通商を要求してきたり、食糧や燃料を要求してきたりしました。
江戸幕府は鎖国を維持し続ける方針で、これらを拒否しました。
このように、18世紀末は日本に様々な国から人々が訪れた時期でした。
日本が外国と通商するのはまだ先のことですが、欧米諸国が日本に接近してきた出来事が多く起きた時期でした。