国語、特に現代文は、「答えがあいまいでハッキリしない」というイメージを持たれがちです。
この理由の一つには、同じことを表現するにもいろいろな書き方ができることがあります。
たとえば問題の答えが、
「AはBに恨みを持っていて、Cはそのことで二人を心配していたから」
だとすると、
解答1.「BはAに恨みを持たれており、彼らはCにそのことで心配されていたから」
解答2.「Cは、AがBに恨みを持っていたことについて心配していたから」
この2つの解答は答えと同じことを表しています。よって、どちらも正解になるでしょう
このような「ハッキリしない」記述問題がある理由は、
国語という教科が
『書かれていることを理解し、それを自分の言葉で説明し直すことができるか』
を測っているからです。
読んで得た理解が合っていて、その表現がしっかり伝わるものであるならば、
採点者は○をつけてくれます。
また、自宅学習などで自分で採点する際にも、
答えと自分の解答が意味することが一緒であるかどうか、自分で判断できないといけません。
また、「文章の読み方は多様であるべきなのに、答えを絞るのはおかしい」という理由で
「答えがハッキリしない」という意見もあります。
これは特に【小説】分野で言われることですが、
小説は筆者が物語の形に、何か寓意を込めたり、言葉にできないような微妙な心情を表現したりします。
たとえば文学の古典でも、様々な評論家が、
「この小説は○○を表している」「いやいや、これは××のメタファーだ」
と、解釈が分かれているものがいくつもあります。
それなのに、国語のテストで正解がひとつかのように問われることを疑問に思う方もいるでしょう。
ただ、国語の問題では、そのような“解釈”を問うような問題は出ないはずです。
問われるのはそれ以前。つまり、文章が表す状況を把握、“読解”できているか、です。
たとえば、
「
『そのネコ型ロボットは、過去に耳をかじられた経験からネズミに恐怖心を持っている。
その耳の欠損についてタヌキとバカにされると激怒する。』
問題① このロボットが怖がっているのは何で、それはなぜか?」
という問題への答えに、
「バカにされるからタヌキを怖がっている」
と答えるのは、誰がどう見ても間違いでしょう。
正解は「耳をかじられたからネズミを怖がっている」であり、
これを「バカにされるからタヌキを怖がっている」と読むのは、“誤読”です。
国語の問題で問われるのは、言うなればこのような次元の話です。
このことが高いレベルでも出来るかどうかで、国語教科の出来が左右されます。
一方で、“解釈”というのは、書かれたことを正確に読み取れたうえで、
その裏にあるものを読み取ることです。
先のネコ型ロボットの例で言うと、
「ここで書かれている“タヌキ”とは、実は自信を失った若者のメタファーであり、
“耳”は少年時に持った夢や希望、ネズミはそれを損なう社会の不条理を表している」
といったように、文章を元に書かれていないことにまで想像を働かせて、読者の側から意味付けすることが
“解釈”です。
これは、正解・不正解と断じられるものではありません。
(もちろんこれは正しい“読解”があってこそです)
こうしてみると、読解と解釈の違いが良くわかるかと思います。
タイトルにもなっている、「文章の読み方は多様であるべき」という言葉は、
この“解釈”について言えることであり、“読解”の問題は基本的に答えが一つに定まります。
☆ ☆ ☆
答え方がいくつもあって分からない…
自分で、書いたものが合っているかどうか分からない…
採点されてもその理由が分からない…
国語という教科に対して「あいまいだから分からない」という方は多いかと思います。
そして、「だから、勉強の仕方が分からない」という方も多いでしょう。
今回の記事では、【国語】という教科の理念、なぜ「あいまい」と感じるのかを説明しました。
みなさんの国語の勉強に役立てると嬉しいです。